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「引札」から「新聞広告」へ


福沢諭吉の役割

Nishigaki Yasuko



日本一の時事新報に広告するものは日本一の商売上手である。

「扨当初新聞事業の困難なりしは紙業筆の竭し得べきところに非ざりき。抑も新聞紙が依て以て財政を維持するの収入は專ら広告料に在り、然るに当初は広告の依頼太だ少なくして其得意は僅に売薬と書籍との二類に限られが如くにして批評したる位なれば収入の少額なるや推して知るべきなり」

  1868年(明治1年)「江湖新聞」を発刊し、後に「東京日々新聞」の主筆を努めた福地桜痴が『新聞紙実歴』で広告が少なく経営に苦労している様子を述べた文面である。
 ここでは、福沢諭吉が1882年(明治15年)発刊した『時事新報』と「広告」について考察することにする。 

一面広告満載の『時事新報』

   
創刊五年目の1886年(明治19年)8月7日の『時事新報』は社告の横から全面広告になる。
しかも洋酒の広告。1889年1月1日(明治22年)発刊の新聞一面は、カルタ、双六等の賣店舗のイラスト入り広告から始まり、記事、論説の類は全く無く、題字の横から全面広告の賑やかさ。
同年2月13日の「憲法布告」の際は憲法関係のについて理解できゆようにした、いわゆる「ハウツー書籍」。
 面白いところでは、書籍の定価の下に安売り価格を掲載した「新版書籍安売広告」もある。
 わが目を疑い、正月新聞の特別編か、それとも番外編か、といささか困惑した。わが福沢諭吉像が揺らぐ!。

総合メディアとしての新聞
社告 新聞購読料の督促


1885年1月12日(明治18年)まで、題字は「右から読む」横書きであり、紙面横一段分を通す堂々とした文字である。
この一面を他紙と比較すると[論説]、[漫言]、[雑事]が多い。
海外にも目を向けた「海外電報」として、独自の見解を掲載し、グローバルな視点での情報の提供をする。そして、囲み記事も取り、例えば「外国新報」として英国の帽子職人の報告を「無頭顧人種」のタイトルで
「年々帽子のサイズが少ずつ小さくなっている。此のままだと人類は何年後には頭が無くなる」と風刺を込めた一節を掲載し、紙面に躍動感を持たせている。
この横書きの題字が1885年1月30日(明治18年)題字が縦書きになる。
題字を縦書きに変えた初期には〈官報〉、〈社告〉と順に掲載するが、回を追うと〈社告〉が先になり、その内容が、新聞購読料の催促と付随して購読料金の記載がトップにレイアウトされ、金銭的な内容に変化していく。
諭吉は「新聞」を取材力・印刷技術・輸送手段、全てを含めた「総合メディア」と考え、『時事新報』を鉄道と郵便を利用し迅速に配付した。しかし、実情は人件費、取材費、紙代、印刷費はもちろん、郵送、紙代等の経費がかかりすぎ、読者の購読費の回収が滞り、収支をととのえるのが難しかったと推測する。

新聞の時代

「外国の新聞を得るは金を得るよりも貴し、実に相待ちおり申し候」

これは、1867年(慶応3年12月)渡英中の門下生、福沢英之助あてた書簡の一節。イタリアから新聞を送ってもらったお礼の文面である。福沢諭吉は早くから新聞に並々ならぬ関心を寄せていた。
諭吉は1858年(万延元年)遣米使節団の一員として渡米、また1860年(文久2年)幕府使節随員として渡欧、1867年(慶応3年)再渡米。江戸時代の中で熟成しきっていた環境から異文化の欧米諸国を多感な二十代に3度も訪れている。
訪れた欧州各地と亜米利加は、「近代メディア」に移る過渡期であった。蒸気機関車、蒸気船、電気通信、印刷技術、郵便法などの発明・開発が情報伝達の迅速性を促し、庶民が自由主義思想を持ち闊達に動いていた。 
イギリスでは1827年には『ロンドン・タイムス』が動力運転の四汽筒印刷機を使用し一時間で5000部の速さで摺られ、『ガリバー旅行記』著者ジョナサン・スウィフトがトーリー党機関誌『エグザナミー』の論説を執筆していた時代であった。
アメリカ社会では、ジョセフ・ピュリツアーが若きジャーナリストとして活躍し、新聞が大衆化していく時期。
モダンな欧文活字タイポグラフィデザインの「書籍」、「新聞」等の活版印刷物は街で数多く見られ、中でも「郵便法」を利用した定期刊行の「新聞」は民衆を啓蒙する力を持つことも諭吉は即座に理解した。
日本では、幕末、ジョセフ彦の『海外新聞』と英人ブラックの『日新真事誌』が横浜外国人居留地を中心に、当時の知識人が「論説」「報道」「広告」を掲載した新聞の在り方を知らしめた。しかし、新政府への基盤を固めていた時期である日本では、マスメディアとして受け入れられなく、いずれも短期、少部数で消えてしまう。
幕末の江戸社会は、木版多色刷りの「錦絵新聞」や「浮世絵版画」の時局風刺画が民衆啓蒙をし、庶民生活を楽しませていた時代であった。

独立・普遍・啓蒙の新聞

明治政府樹立後、数年で「新聞」は次々に発刊されることになるが、新政府の各政党のプロパガンダとして発刊され、自由党機関紙は『自由新聞』、『絵入自由新聞』、『自由灯』。
改進党機関紙は『郵便報知新聞』、『東京横浜毎日新聞』、『改進新聞』、『読売新聞』。
帝政党は『東京日日新聞』、『東京曙新聞』、『明治日報』、『東洋新報』と系列化されていた。
特異だったのは、江戸時代幕末から発行されていた時局風刺の錦絵新聞・『東京日々新聞』と『郵便報知新聞』。この二紙は、1872年(明治5年)以降、一色刷りの政党新聞に変わり、日本で記録される最も長い歴史を持つ新聞となる。
特に『郵便報知新聞』は前島密の発案から矢野文雄、犬養毅、など福沢門下生が加わり、改進党の政党紙としての色彩が強かったが、後に『報知新聞』と名称を変えて東京の新聞界で君臨する。
この状況の中で『時事新報』は、民間独立・普遍・啓蒙を打ち出した新聞形式をとり、

「……我社固より政治を語らざるに非ず、政も語る可し、学事も論ず可し、工業商売に、道徳経済に、凡そ人間社会の安寧を助けて幸福を進む可き件々は、之を紙に記して洩らすなきを勉可し・・・」

と発兌の趣旨を記し、1882年(明治15年)社主・中上川彦次郎、編集会計・本山参一をスタッフとして刊行。
創刊号は1500部、その内予約が1420部あったといわる。(『風刺漫画と世相風俗年表』岩崎爾郎・清水勳共著 自由国民社昭和57年より)徹夜で刷り上げた新聞折りを諭吉は手伝ったようだ。

発刊当時の紙面デザイン

『時事新報』は他紙と比較して、活字は細く切れ味がよい。
行間も僅かだが広く、読みやすさを配慮し1行24字詰め。インクのにじみも少なくさわやかな紙面構成だ。
英字新聞に見られるタイポグラフィの美しさが見られ、他社の紙面と比較するとモダンなデザイン感覚である。(図版参照)
因みに『時事新報』の発行元は慶応義塾出版社である。現在の慶応義塾大学の所在地と同一の場所である。

「近代経営」を維持する「広告」

外来の新聞発行形式を踏襲した諭吉は、新聞経営を成り立たせる収支勘定を重視し、「広告掲載」の必要性を説く。
社長の中上川彦次郎が係を督励して広告の勧誘に努めるが、石河幹明が挙げている当初の広告収入の数字は1ヵ月150円から160円であった。(『福沢諭吉伝』第三巻) 
創刊時の広告主は、阿部泰蔵の「明治生命保険会社」、早矢仕有的の「丸善」、また「三菱汽船」など、主として諭吉に関わりのある経営者が多い会社であり、他には出版社と「薬品」と「学校」の広告が見られる程度である。
珍しいところでは○に十のマーク、天狗煙草の岩屋松平の「西南國産賣弘所」の広告が掲載されている。




引札広告ー「報条」
江戸時代の大店商人が力を入れた「引札」「近代経営」を維持する「広告」


「広告」は江戸時代から明治のなかばまで「引札」と称された。 (引札は「報条」と呼ばれ、現代のチラシ広告に当たる。)
平賀源内(風来山人)の「はこいりはみがき嗽石香」の引札からはじまり、販売の戯文(コピー)を戯作者集団が書き、浮世絵師が挿絵を描く〈絵柄と文字〉が一体化した一枚刷りの引札広告は、
開店通知、年賀、季節の挨拶、売り出し等、機会がある度に一枚ずつ各戸に配達人が配布する人海戦術で多配された。

余談だが、江戸時代の大店商人が力を入れた「引札」は、商家間の力競争となり、技法(木版画技 法)は多彩を極めていく。
絵師は鈴木春信、北尾政寅(山東京伝)から始まり、喜多川歌麿、葛飾北斎、安藤広重等著名な浮世絵師が携わる。
そして、現在の広告業界で称するところのコピーライターの元祖ともいうべき引札章句の作者に出版文化の創始者・山東京伝、及びその戯作者集団がこぞって取り組む。
(戯作者には、山東京伝、滝沢馬琴、式亭三馬、十返舎一九、仮名垣魯文、国文学者の本居宣長も自家製の引札章句を書いている。)
この多色刷りの木版画は、色彩と構成が美しく、わかりやすいこともあり、後に世界に誇る「浮世絵版画」を熟成させることになる。 

外来の新聞発行形式を踏襲した諭吉は、新聞経営を成り立たせる収支勘定を重視し、「広告掲載」の必要性を説いた。
社長の中上川彦次郎が係を督励して広告の勧誘に努めたが、石河幹明が挙げている当初の広告収入の数字は1ヵ月百五十円から百六十円であった。(『福沢諭吉伝』第三巻) 

プレスキャンペーンー売薬無効論




江戸時代は「身体」と「精神」をいやす媒体として書籍出版と薬屋が抱きあわせで営業し、広告しなければ売れない「藥」の引札広告が多かった。
また、「藥」は利ざやが多く、商売としての儲けも多い。
明治期にも「売薬」の引札が多く、医師にかかる機会の無い庶民は引札広告から薬を買い求め「病」を治癒する生活習慣が続いていた。いかがわしい売薬広告も多かった時代である。
欧米諸国に滞在中、諸国の病院施設を積極的に見学し、近代医学に理解がが深かった諭吉は、緒方洪庵の「適塾」の優等生であったことから、
売薬に不信感を抱き、この社会状況を捉え新聞で売薬不買のキャンペーンをすることを提案した。
1882年10月30日(明治15年)「大政官第五十一號」布告の機会を捉え、「売薬無効論」を[論説]、[漫言]と繰り返し掲載する。
これは、現代のプレスキャンペーンである。
「売薬」の無効と危険性を説き、さらに引札広告から新聞広告への切替えを商人に説得し、1881年10月16日(明治16年)の「商人に告ぐる文」と続ける。
この「売薬論」は『時事新報』の画期的な事件となり、東京府下の売薬商組合から営業毀損回復の訴訟を起こされる
(原告に劉生の父の岸田吟香がいる。岸田吟香は新聞記者であるが、傍らで目薬「精 水」を発売。)。
初審と訴訟審では新報が敗訴するが、明治18年の大審院では「新報の全勝に帰したり」と勝訴する。
「一年三百六十日、廣告に最上の日は三百六十日なり」「(本文は當社新法商事編輯主任員が商人某々氏に興へて貨殖の秘訣を論じたるものなり)」と括弧つきの文で始まる「商人に告るの文」の本文の一節を拾っていくと、


引札を調製して戸別に配布するなど、何れも皆大切なる手巷の茅屋に至まで、東西南北都鄙遠近の別なく行き渡らず。

人情の常として新聞紙は自分の銭を持出 して買いたるものゆゑ、社説なり雜報な り又廣告なり、讀まざるは損と心得て多 忙の中にも一讀するものなれども、無代 にて投入れられたる引札なれば・・・

西洋商人の諺に「一年三百六十日、廣告に 最上の日は三百六十日なり」

隣人等は引札配布、団扇進呈位にて満足 する折柄なれば、大いに我腕を輝ひて獨 り富を占んこと、此時を失いて又他に好 機なかるべし。篤と御勘孝、急ぎ金儲けの御工夫專一に奉存候

巧みに引札から新聞広告への切り替えを商人に促し、最後は「金儲けの法」まで説く。この文の後半では、

 「広告文は達意を主とする。余計なる長口上は甚だ無用なり。……意味さえ分かれば、其文法の可笑しき杯は、
自ら其中に其人の率直淡泊放為の気象を示して、至て衆客の愛顧を引寄するものゆえ、決して恐るるに足らざるなり」


と、現在の広告業界のコピーライターの文章作法まで説き及ぶ。

広告代理店・三成社



ここでは、新聞経営の経営基盤としての広告掲載を述べたが、「広告」は本来、独立したメディアでもある。商業社会での流通を潤滑にし、経済成長の要ともなる。
明治期には、1905年(明治38年)横山天涯(源之助)が『商業界』三月号の「我国広告業の発達及び現状」と題して

「現に今日広告業界に第一を占むる弘報堂の如きも、その主人というのは、素とは時事新報の小使い」と取次業者が軽視されている実情を書く。士族経営の多い新聞界では、商人に頭を下げて広告を取る業務は卑しい仕事と考えられ、広告取次は販売業務の片手間になされていた。
この文の後半では、

「広告文は達意を主とする。余計なる長口上は甚だ無用なり。……意味さえ分かれば、其文法の可笑しき杯は、自ら其中に其人の率直淡泊放為の気象を示して、至て衆客の愛顧を引寄するものゆえ、決して恐るるに足らざるなり」

と、現在の広告業界のコピーライターの文章作法まで説き及ぶ。

この社会状況の中で『時事新報』創刊直後諭吉は、永田作右衛門(元自由新聞社員)、中沢丙一(元絵入朝野新聞社員)に広告取次業務の仕事を進め、1887年(明治20年)には、のちの鐘紡社長・時事新報社長武藤山治が「各新聞広告取扱所」を創業する。
そして、1888年(明治21年)12月15日に諭吉の意図の基に事務長・坂田実、編輯主任・三宅豹三、会計主任岡崎郁次郎の三人の協同組織し、広告代理店「三成社」を設立。初代社長は三宅貞一郎である。
「三成社」の看板文字を諭吉は執筆したという。(「新聞広告史百話」読売広告社編 藤田幸男著より)
同年12月13日、『時事新報』に広告代理・「三成社」を設立した告知広告を三段抜きで掲載。その後、福沢周辺から広告業者店が続々と開業する。
この社会状況の中で『時事新報』創刊直後諭吉は、永田作右衛門(元自由新聞社員)、中沢丙一(元絵入朝野新聞社員)に広告取次業務の仕事を進め、1887年(明治20年)には、のちの鐘紡社長・時事新報社長武藤山治が「各新聞広告取扱所」を創業する。
そして、1888年(明治21年)12月15日に諭吉の意図の基に事務長・坂田実、編輯主任・三宅豹三、会計主任岡崎郁次郎の三人の協同組織し、広告代理店「三成社」を設立。初代社長は三宅貞一郎である。

ニューメディアと広告法

〈時代の節目〉にいた福沢諭吉は『時事新報』を介して、正確な知識と認識力を広く人々に開放した。生活様式も江戸時代から近代社会生活へと啓蒙していく役割をし、新聞経営のなかで経済近代化の先導をも果たした。
現在、印刷メディアから電子メディアの時代へと世の中の流れは大きく変わろうとしている。新聞社が発信している電子メディアであるインターネットのホームページは、従来の印刷媒体では出来ない多層の情報伝達力を持つ。
1998年4月の『朝日総研レポート』の「インターネット上の情報提供」で森治郎氏は朝日新聞のインターネット情報サービスasahi.com のヒット数が1998年2月18日1058万3000余あまりになり、現在1日平均ヒット数は800万を越えると書き、「快挙の宣伝」と言葉を添える。
電子メディアによる「ニュース」という言葉が表現する配信速度は速まり、表現も重層化した。国際的な視野を持つニューメディアであるインターネットが、優れた情報を送る事が出来れば広告伝達として大変なメリットを持つ。
各新聞社は諭吉が広告を考慮に入れたように「インターネットビジネス」として模索されているようだ。
新聞社に付随する印刷企業、製紙企業も電子メディアを睨み新たな企業戦略に挑戦している。時代は今大きな節目に入ったようである。