日本のビジュアルコミュニケーションNo4 1998年3月
西垣泰子

平賀源内『風流志道軒伝』の一枚の挿絵から
Visuarl Communication in Japanese Society No4
「浮世絵版画」に見る日本の「グラフィック・デザインの表現様式 
Ukiyo-e and Graphic art
江戸時代中期の明和(1760年代)年間から慶応・初期(1860年代)、
神田白壁町の住人平賀源内、油彩画と銅版画制作の司馬江漢、錦絵創始者鈴木春信、『解体新書』を訳した杉田玄白等が海外の情報を多く流入していた。。
そのメディアは木版刷りによる複製メディアである。

■平賀源内『風流志道軒伝』の一枚の挿絵から
●中国古代版画と『風流志道軒伝』の挿絵
平賀源内著の『風流志道軒伝』と、長崎出島の〈唐船〉から流入した一枚の中国古代版画との比較検討。

平賀源内は、同じ神田白壁町に住む貸本屋岡本利兵衛から執拗に執筆を依頼されペンネーム「風来山人」と称して戯作集を出版している。この中に『根南志具佐』と『風流志道軒伝』がある。
『根南志具佐』、『風流志道軒伝』は宝暦十三年(1763)三十六歳の時、出版された。
当時300部を越え、江戸のベストセラーとなり、明治期まで重版が繰り返されている。

『風流志道軒伝』には一枚の挿し絵(図左)が挿入されている。

この挿し絵を観察すると、中国古代木版画の「山海経・各種奇様盛妖談」、「地群仙」(広島・王舎城寳物館蔵)と同じキャラクターの「手足長人とその他」が登場する。そのあらすじは、
浅草観音の申し子として生まれた主人公・淺之進が出家した頃、ある夜の夢の中に現われた”風来仙人”から仏教界の堕落を説かれ
「我が仙術の奥義を込めた団扇なり。抑批団扇を以てあおげば、猛暑に涼風出、寒時は、暖かなる風を生じ、飛ばんと思えば羽ともなり、海川にては舩ともなり、遠近を知、幽微を見る。身をかくさんと思えば忽に見えざる、奇妙希代の重宝なり。是を以て天地の間を往来し、諸国の人情を知るべし。」

と便利な一枚の団扇をもらい受け旅に出る。
始めは、江戸で女色・男色両道から始まり、日本中の色道を楽しみその後、仙人からもらった団扇をあおぎ、「大人だいじん国」、「小人こびと嶋」、「長脚ちょうきゃく国」、「長擘ちょうひ国」、「穿胸せんきょう国」など〈奇人の国々巡り〉をする。
「うんてつ国」、「きやん国」、「愚医国」、「武左国」、「いかさま国」や、「清国」、「朝鮮」、東南アジア巡り、最後には「女護が島」にたどり着く。その話が講釈師・深井志道軒の言葉を借りてリズムカルに描かれている。
このテーマは、一勇斎国芳により浮世絵版画で視覚化されている。 

■江戸のイラストレーター、一勇斎国芳と浮世絵版画


この小説を土台として、一勇斎国芳が、安房の国朝夷(あわのくにあさひな)に生まれた朝夷三郎(あさひなさぶろう)が諸国をめぐり数々の武勇伝を繰り返す「朝比奈諸国廻り図」、浮世絵版画「朝比奈小人島遊」(嘉永期1843)、三枚刷り浮世絵版画・『浅草奥山生人形』(安政2年1855年井筒屋版がある。
『浅草奥山生人形』図版の構図や人物処理は中国版画に酷似している。
例えば、中国版画では「小人国人」は「大人国」のTひょろ長い巨人Uがささげ持つお盆の上に数人乗せられて捧げ上げられている図がセンターに描写されている。
また、国芳の(図左上)では象の長い舌先にチョコンと乗り、口上を述べるあまから屋としてアレンジされている。



『風流志道軒伝』は江戸庶民社会の夢物語として錦絵ばかりでなく、歌舞伎や芝居の出し物にも演出流用され、更に、現代のディズニーランドのような大衆娯楽街「浅草奥山」の細工出し物である生人形としてリアルに立体化された。

一勇斎国芳戯画の浮世絵版画「みかけはこわゐがとんだい々い人だ」も『朝比奈物語』がテーマでり、相当数の刷り益しがされてと聞く。


■賑やかな情報収集、
ジョナサン・スウィフトの『ガリバー旅行記』と『風流志道軒伝』
『風流志道軒伝』が出版された宝暦十三年(1763)頃は、平賀源内が「石綿」(アスベスト)を利用した火完布を発明(1776)したり、電気の研究「摩擦起電機・エレキテル」を発明(1776)した。また、平賀源内は「摩擦起電機・エレキテル」が、軽くピリピリしびれることから、「百人おびえ」「百人ためし」と出し物にした。更に、鉱山開発のコンサルタントとして秋田の角館に行く。その途上『解体新書』の挿し絵を描くことになる小田野直武に西洋遠近法の指導をして、杉田玄白の『解体新書』の挿絵師に推挙した。一方、平賀源内は漂民が帰国した際の聴き取り調査もしている。 
宝暦年間では、山東京伝等による「読本」の出版も盛んになり、滑稽本などが相次いで出版され、庶民文化が盛りとなる。『仮名手本忠臣蔵』、上田秋声の『雨月物語』や絵入草双紙が「赤本」「黒本」「青本」「黄表紙」「合本」と読者の年代層に合わせて相次いで出版された。
平賀源内は様々な舶載書を目にしていた。そして、長崎通詞・志築忠雄等により18世紀後半にはオランダ語の解釈と翻訳は完璧に近くなっていた。
『風流志道軒伝』は、中国版画の「山海経・各種奇様盛妖談」、「地群仙」等を見る機会を得、数多くの「舶載書」からジョナサン・スウィフトの『ガリバー旅行記』を入手し、ストーリー立ての参考したと推察する。
源内は、蘭館長の春の江戸参府の時期、宿泊先の江戸屋におもむき、同行の一員または通詞から私財を投げ打って書物を購入している。また、オランダ語学習の為にかなりの時間を費やしている。
●ジョナサン・スウィフト 
ジョナサン・スウィフトは、ラフカディオ・ハーンの故郷アイルランドのダブリンで生まれた。ダブリン大学卒業後、1713年ダブリンにある聖パトリック大聖堂の主任司祭になる。
29才(1704年)の時宗教界の争いを風刺した『A Tale of a Tub(桶物語)』を書きあげ、同時期に学問論争の愚直さを批判した『The Battle of the Books(書物戦争)』(1697年)を書く。
晩年ジャーナリスト・ダニエル・デフォーの『ロビンソン・クルーソー』の出版に刺激され『ガリバー旅行記』を書き上げた。
ちなみに、デフォーの『ロビンソン・クルーソー』も社会風刺小説であるが、『ガリバー旅行記』も社会過激に風刺した内容であり、源内の『風流志道軒伝』も江戸社会の風刺小説である。

この『ガリバー旅行記』は英語から即座にフランス語、オランダ語に翻訳され世界のベストセラーになる。
●『ガリバー旅行記』
『ガリバー旅行記』に触れてみる。
ガリバーが船医となりオランダのライデン(シーボルトがいたライデンである。)から 航海に出るが、先々で船が難破し、一度目は全てが12分に1に縮小された「小人国」リリパット国(Lillput)に漂着。その国の様子を書くことで、当時のイギ リス政治を風刺。2度目の漂着は12倍に拡大された「巨人国」プロブデンナグ  (Brobding)の巨人の社会を借りてヨーロッパ人の残忍な性格を風刺。3度目の漂 流は飛島(Laputa)、バルニバービ(Balnibarbi)、ラグナグ(Luggnagg)、グラブダ ブドリグ(Glubbdubdrib)に、そこでは当時の学問が風刺される。4度目は「馬 国」フーイヌム(Houyhnhnnms)。其の国の馬フィヌムの理性を賞賛し、人間の 姿をしたヤフーの低俗さを書く。  
スウィフトは人生後半TヤフーUを軽蔑するごとく人間嫌いになった。

●源内とスウィフト
岩波文庫の『桶物語 書物戦争』の後書きに訳者・深町弘三氏がスウィフトについて記述している。

「スウィフトは自尊心が強く、敏感であった。(中略)常に皮肉と嘲笑の仮面を被っていた、高慢と冷酷の表面の下に敏感と神経質をそっと隠していた。偽善と虚偽を恐れ憎むあまりにややもすると露悪家となった。学生時代からの哲学嫌いは彼の天性の1つであった、抽象と概括を嫌い、例外を証明する珍奇な事実を見出すことを喜ぶモンテェヌ的実証精神の持ち主だった。そこにはまた、彼の性格の根本的欠陥というべき想像の欠陥が結びついていた。彼自身がもてあますほどの熾烈な世間的野心、立身出世欲に駆り立てられる徹底的な実際家だった。
彼にとっては、花鳥風月の趣味は詞と呼ぶセンチメンタリズムに過ぎず、文学ですら非実際的な空想、従って軽蔑すべきものであった。(略)」とある。

この後書きからすると、平賀源内についても同様でないのではにかと推察する。そして、スウィフトも源内も女性を愛するのに屈折した心を持っていたことまで共通している。
同時代、江戸もイギリス・ロンドンも商業都市としての形成が世界に類がないほど高く、そこでは庶民が生活を謳歌していた。
あらゆる角度からジョナサン・スウィフトの小説を読むと源内の戯作と内容がクロスオーバーしてくる。
源内もスウィフトも同時代が生む同種類の人間であり、源内はスウィフトの小説を良く理解出来たに違いない。



■映像を楽しんでいた江戸庶民
江戸社会で出版された一冊の書物の挿し絵から図版を追うと、最初に述べたようにこの時期は異国の情報が豊かに流入し、その情報をアレンジする知的エネルギーに満ち溢れていた。
 
もう一枚、国芳の浮世絵版画「写絵を見る美人と子供」(下図)を参考にすると、〈異国の文化や技法〉を短期間で庶民文化の中で花開かせたか判断出来る。


歌川国芳展の図録『歌川国芳』に掲載されているサントリー美術館の岡戸敏幸氏は、

「写し絵」とは当時最新の光学機器であった「幻灯機」を応用した見せ物。美 濃紙を貼りあわせた横長のスクリーンに、「風呂」と呼ばれる木製(後には金属 になった)の幻灯器で人物や鬼神などを映し出すものである。前後二枚の薄い板 硝子からなる種板(スライド)は一部が可動式となっていて、その操作によって映像に動きを与える事が出来る。複数の演者が風呂を抱えて自由に動き回り、クローズアップや重合わせの技能を駆使し映画に近い視覚効果が実現される。
多くは口上を伴い、花のつぼみが開くという単純なものから、歌舞伎や浄瑠璃に題 材を求めた長編までさまざまなバリエーションをもって演じられた。寛政年間初頭、大阪に萌した流行の芽は、享和三年(一八〇三)三月江戸神楽坂における三笑亭都楽に興業を機に開化し、明治の終わり頃まで命脈をたもった。幕末明治 の玩具絵に、写し絵がしばしば採り上げられていることからもその人気が窺える。
この作品は、叶福助の口上に合わせ達磨、角盥、盃洗が踊りだす様を描く。
それぞれの器物から手足が生え、動き回る演出に、先述した種板の工夫が生かさ れていたはずである。子供たちの歓声が聞こえてきそうな情景である。後ろ姿を 見せる女性が手にした団扇に七代目団十郎の賛がみえる。
夏の一夜、この作品を貼った団扇ゐ片手に写し絵見物に興じた女性もあったことだろう。国芳『当盛水 滸伝』(鳧の安海苔作、文政十二年)中巻にも「九紋竜やみ夜に魯智深を認」と 題して写し絵興業の様子を描いており、・・中略・・・「映像」的な絵画表現へと結実した。」
と解説されている。

「国芳は「奇っ怪な生き物が写る幻灯機の映像を楽しむ美人と子供達」を、パタパタと涼風を送る「団扇絵」にしてしまった。
現在から見ればこの幻灯機は稚拙な出来であるが、動く映像を楽しむ生活が庶民社会にあった。 1895年奇術師メリエスがフランスでリュミエールの実験映画を見て、商業映画『月世界旅行』を完成させてのが1902年であった。

■木版画
錦絵「浮世絵版画」は「複製メディア」の技法である。
印刷技法と、刷る媒体である紙製造法も大きく関連してくる。
印刷技法と紙製法技術、火薬製造は中国の三大発明。
中国では、印刷技法は6世紀随(589年〜618年)の時代に木製の道教の護符が印刷されている。
唐(618年〜906年)時代、日本の奈良時代に仏教僧侶の交流で「文化と技法」が渡来した。
称徳女帝と吉備真備等の熱意でサンスクリット語を漢字で印刷った百万塔陀羅尼(768〜70)が最も古い印刷物として現存する。
しかし、称徳女帝没後、中世後半に至るまで日本では独自の印刷技術の記録が無く、印刷に関しては、空白の長い期間がある。中国では「中国大陸教典」、「護符」、「仏典」等の木版印刷物があり、宗(960〜1280)時代には中国印刷術が最盛期を迎える。中国では、大陸続きのヨーロッパ文化との侵略交流で印刷文化は異文化と融合しつつ発展し、文字印刷も「木活字」、「陶活字」、「金属活字」と開発と進歩を遂げていく。この文化が鎖国と称されている江戸期、明時代の出版文化全盛の後の出版統制により出版文化が日本に流入した時、世界に誇る日本の木版画表現の黄金期を形成した。

絵師は版画表現の色面効果を考慮に入れ、彫師は木をノミで掘る事によって出来る動きの制約された線を効果的に生かして彫り、摺師は平面色彩の色合を合わせていく総合作業の積み重ねの上での平面作品である。
絵画とは違い、制作する途上で、個人的な思いのタッチは変化していく。つまりデザイン要素が多くなり、芸術性は薄れ、マスメディアとしての効果が強くなる。100年かけて日本社会の中で、繰り返され表現され、世界に誇る複製メディア・「浮世絵版画」となる。

■奇人(奇才)変人求む
平賀源内が「複眼」であらゆる文化・文物に好奇心を燃やし、アクセクと自らの手元に引き寄せ、そして、それを自らの好奇心と才能でアレンジし放出しなければ賑やかな江戸文化は無かったのではないか?。
br>世紀末を迎えた日本社会、日本は泥縄状態の足掻きで世の中を活性化させようとしているが、優等生は何の価値観を見出せないことが、実証された。
21世紀を生き抜き、賑やかな日本社会を再び取り戻すには奇人(奇才)・変人が表舞台に立ち、アクティブに動きが必要である。
更に、知識と技法が放出され、知識人が庶民と等身大で動くことが必要だと考える。  

■最後に
「馬鹿らしゅうありんす国のおもしろさ」 江戸川柳


●日本古典文学体系55『風来山人集』 岩波書店 昭和49年
●T・Fカーター 薮内清 他訳注『中国の印刷技術』1977年 東洋文庫
●芳賀徹著『平賀源内』朝日選書 1989年 朝日新聞社
●松田修『江戸異端文学ノート』青土社 
●増田太次郎『引札・繪びら・錦絵』1981年 誠文堂新光社
●大阪引札研究会編『大阪の引札・絵びら』南木コレクション 東方出版
●『かわら版 新聞』江戸明治三百事件 太陽コレクション1978年 平凡社
●『かわら版 新聞』江戸明治三百事件「 太陽コレクション1978年 平凡社
●原作ジョナサン・スウィスト『ガリバー旅行記』 小学館世界の名作 1997年 小学館
●ジョナサン・スウィスト作『桶物語・書物戦争』 岩波文庫 1989年 岩波書店
●ジョナサン・スウィスト作『ガリバー旅行記』 岩波文庫 1996年 岩波書店
●ダニエル・デフォー作『ロビンソン・クルーソ』上・下 岩波文庫 1996年 岩波書 店
●クリストファー・ビバード著『ロンドンある都市の伝記』 朝日新聞社 1983年 朝日 イブニングニュース社発行 朝日新聞社発売
●内多毅監修『イギリスの風刺小説』 1987年 東海大学出版会
●安田武 多田道太郎著『「いき」の構造を読む』朝日選書 1990年 朝日新聞社
●稲垣進一 悳俊彦編著『国芳の狂画』稲垣進一 悳俊彦編著 東京書籍
●図録『寛政の出版界と山東京伝』 たばこと塩の博物館 1995年
●図録『歌川国芳』 歌川国芳展(生誕200年記念) 1996年
●図録『シーボルト父子のみた日本』 (生誕200年記念) 1996年

掲載図

平賀原内 著『風流志道軒』挿絵

・中国古代木版画
1400年代明時代の出版文化の中で刷られた版画類であり、日本の浮世絵版画はここに多くの制作方法を学んでいる。

・一勇斎国芳「浅草奥山生人形」 大判三枚安政2年(1855)
せんきう国人(胸に穴が空いている)
ふけい国人(薪を背負う)
むふく(無腹)人(内臓が無い)
あしなが国人
てなが国人(あしなが国人に背負われている)
こんうん国人
ここでは、小人族が見当たらない

・一勇斎国芳「浅草奥山生人形・異国人物と丸山遊女」 大判二枚 安政2年(1855)
せんきう国人(胸に穴が空いている)
ふけい国人(薪を背負う)
むふく(無腹)人(内臓が無い)
あしなが国人
てなが国人(あしなが国人に背負われている)
こんうん国人
象の舌先に乗る豆粒大の小人は口上を述べる「あまから屋」、左上の遊女は長崎丸山の遊女

・一勇斎国芳「朝比奈小人嶋遊」 大判三枚、弘化末〜嘉永初期(1846年頃) 朝比奈三郎が小人の国に行き、そこの豆粒のような大名行列をのんびりと眺める極大と極小の平面的なアンモルフォーズ手法(逸脱した遠近法)構図は視覚効果として強く近代の諸外国のポスター表現、や現在も広告表現の1つとして流用されている。
・一勇斎国芳「朝比奈諸国廻り図」 詞書き
右図 あし長島、大人国、天竺国しゃむ国、半身国、ふけつ国、まむしがたら、やしや国、南ばん国、
中図 小林朝比奈、かぴたん国、小人国、ていれい国、いきせんや、長耳国、黒人国、大づ国
左図 女人国、うみん国、狗国、一目国、手長島、羽ね国、?国、

・一勇斎国芳戯画「みかけはこわゐがとんだい々い人だ」大判、弘化末〜嘉永初期(1949頃)
首から下はうしろ向きの朝比奈三郎。顔は朝比奈嶋巡りの国の奇人で合成されている。

引札「生うつし人形細工」士農工商別を四季別に分けて展示していると宣伝している引札。
細工人の名が三名連ねてある。
安政2年(1855)細工師・松本喜三郎の制作した生人形はまるで生身の人間のようで、江戸っ子中の注目を集めることになる。

・生き人形/活人形

「浅草奥山生人形」とは、江戸期、「物語の人物」や「人気者」が《生き人形》として細工師により制作され、浅草奥山で展示され喝采をあびた出し物の一つ。浅草奥山は見せ物興業の盛んな場所。生きていると見 間違える程精巧に、髪の毛は人毛を使用、目はガラス製で黒目は着色、白目には綿を詰めて、生きていルるように制作された、当時流行の見せ物細工。庶民の顔、例えばTこめかみに膏薬を貼って叫ぶおばさんの顔UT何処にでもいる憂鬱そうなおじさんの顔Uとかもあるが、残念ながら日本では、アッサリ壊されて現存していない。シーボルトがコレクションの中に入れて、数点オランダに持ち帰っているのがあるのみ。







・一勇斎国芳「写絵を見る美人と子供」団扇絵版 天保3年(1832)